お客様の中でどなたかお医者様ごっこのお医者様はいらっしゃいませんか?

ユルめのやつ(タイトルは不定期に変わります)

釣り釣られんだりんぐ

ちょいとこの記事。

「おめでとうIPhone! やっとAndoridに追いついたね」http://getnews.jp/archives/251241

 

別にボクはApple信者ではないけども、ちょっと言いたい。2010年前半まではAndoridにはワクワクする未来があった。しかし日本のメーカーがクソみたいなAndroid展開を始めた事によって、そのワクワクした未来は少なくとも日本には訪れない事がわかった。GoogleにとってのAndroidは「ただの口」でしかなく、ユーザがどんな体験をしようとも口にさえ入ってくれば良い…としか見受けられない。大袈裟だけどもAndorid技術を愛する技術者の愛が無かったらさっさと破綻してるようにさえ思う。

都内の通勤電車でつり革に捕まって片手で使えないスマホが与える体験なんて、そいつ自身じゃなくて周りの人間の迷惑な体験ばかり生み出すなーと思う。フリーで働いてて通勤しないボクが言うのもなんなんだけども。

 

iPhoneであれ、MBAであれ、ボクがそこに求めて応えてくれている部分は、それらは現実的に使える感をもたらしてくれていると言う事。少なくともボク個人には。そしておそらくiPhone5でもそれは同様だろうとの印象を今のところ持っている。そんな体験をもたらしてくれているウチはこれらの機器を使い続けるだろうーな。たとえAndroidiPhoneに追いついたとしても。

 

追記1:Parallelsが起動しません。どうりで杉崎美香だわ。

 

全くお酒に酔っ払ったりしていない中で考えた、お祭りで売ってる焼きそばの中に潜む利益と同じくらいの純粋悪についてのそこはかとない感じのアレ

下品で敢えて空気なんか読まない時もあるボクですが、礼にはうるさく敏感です。そんなワケで人を影で貶めたり節操無く人のパクりネタで煽ったりする人間を見るとイライラするのですが、それも19-20の兄ちゃんなら痛い目を見れば良いと思うだけで特に問い詰めたりはしないです。

ところがいいオッサンがそうだった場合には、はて…コレはどうしたものかな…と思案が始まりますが、オッサンになってもそのような行動が取れる程度の礼節しかないのであれば、問い詰める事自体が無駄であり、そのようなコストを自分が負う意味すら無価値に思える上、そのような人間はボクが何かアクションを起こさずとも自らの間口と世間からの信頼を狭めてるだけでしかないと言う判断になるので、ボクは何も言わないと言う選択に大概の場合は至ってしまいます。

 

今回の事例では、節操ない行動のオモテッツラの皮が「応援」と言う子供の純真のような一見は邪気の無い、しかし押し付けがましいような行為に見えたのでイライラしてしまいました。当該ネタはFacebook上のPOSTがニュースフィードに流れてきたのですが、このノリに対してボクと似たような感覚を覚える人はいないのか…と思いつつネタ元を探しに行き、問い詰めたろかい!と少し躍起になっておりましたが、その途中でこのコストをかける意味って一体なんなのだろう…そのように自分の中で考え始めたら冒頭のような考えに至り、その無価値さ加減に探し突き止める事をボクは止めました。

 

やがて思考は何故に当初自分がイライラしたのだろうか…と、むしろそこにフォーカスが当たって巡り始めます。例えばパクリ煽りの対象となったサイト主が全くの他人だったらボクはどう考えただろうか。もしくは知り合いだったとして、ボクよりも目上の人間だったらどう考えただろうか。もしくは同じぐらいの経験値をもっている同性だった場合にはどう考えただろうか。

結論的には(ボクから見て)被害を受けたであろう側の人間がどういう立場で性別が何でどういう人間であるかは関係ない。やはり先の行動に見える「あざとさ」にボクは嫌悪を覚えているのだと解釈するに至るのです。では何故にそのあざとさに嫌悪を覚えるのか…と言うところにスポットが当たって思考は遷移を始めます。

 

「応援」と言う一見は邪の無い皮をかぶり且つ一種のジョークのようなノリで行動しているにも関わらず、その内側にある自らの益を得る…もしくは高めようとしている邪があるような気がしてならないからと言うのが、その解なのかもしれません。

しかし我ながら、これらは他人が最初にリボーーーン(ボク自身は2012.08.05脱退)を見た時に感じた感覚に近いのかもしれないとも思ったりします。復興支援の皮をかぶって利益を得ようとしてんじゃないの?金儲けしようとしようとしてんじゃないの?って感じの思考と似ている気がするのです。

 

人の内側なんてものには人はたどり着けません。できる事は人の見えざる内側を思いつつ、ただただ行動する事しかできません。そこに自分が得られる価値だとか益だとかを挟んでしまったら、ある意味で純粋(もう純粋と言う言葉自身に邪が入ってる気がしてならない感じにボクはなっていますが)な評価に則った行動なんて取れなくなると考えます。そう言った意味では、ボクはより純粋悪の中でずっと生きている気がしてならないですが、自己を内側で正当化する手段にかけては、もしかしたらボクは天下一なのかもしれません。

2011年最後の縦笛

何も考えず2011年を振り返ろうと思う。

そもそも2010年12月にいろいろな事件がおきた。そもそもは大好きだったオンナにフラれて別れた事と、もしかしてソレによって何かを得てしまった事が去年末から燻っており、それが2011年を2011年たらしめる事だったのかもしれない。そうなるはずだった。

必ず忘れられない年になるであろう2011年。それは地下鉄サリン事件阪神大震災があった1995年に匹敵する事なるだろう。アレから16年。ボクは同じ独身に戻りそして彼女も今はいない。クリスマスの頃に流れる音と街のお祭りムードをボクは肌寒く感じ、しかしだからと言って温かみも求めなかった。それでも日本は数多くの人が人の温かみを求め、そしてソレを感じた事だろう。それはボクが昔好きだったオンナが住んでいたところで起きた悲劇に起因する。

その悲劇は人間の弱さ・人間の強さがぐちゃぐちゃに同居している事を露にさせた。

4月の終わり。ボクらは日本の、いや東京の閉塞感をまず打破し、日本が再び力強く大地に根を張り新芽を出し大きな大きな優しい木になるようにとリボーーーンの活動の計画を練り始めた。東北で起きた悲劇を日本全体で考え対面し日本全体が強くなる必要があると考えたからだ。その為に人々のココロをアクティブにする必要がある。それならば日本古来よりある「祭」を模倣するのが最適なのでは?とボクらの結論は至った。

しかしボクらが考えていた程以上に世の中は動かない。資金も実績もないボクらに会場スポンサーになってくれるトコロもなければ、現地へのコネクションも全くないボクらには登壇者もなかなか集められない。マンパワーリソースも圧倒的に不足していたし、今から振り返ればチームとしての連携もまだまだだったのかもしれない。

会場は開催日までもう日が無いところで慶次さんがなんとかゴリ押して決めてくれた。登壇者は急遽連携を深めリボーーーンへのコミットを決意してくれた阿部ちゃんがなんとか集めてくれた。タスクがパンパンだったであろうりょうちんは時間を絞り上げ確実にWEBサイトもフライヤーも仕上げてくれた。彼はリボーーーンきっての情熱家だ。その情熱家が当日は不慮の体調不良で出席する事ができなかった。さぞかし悔しかっただろう。イベントの形態がわかりづらいとの批判からボクらはマンガ絵で伝えるアイディアを思いつく。それをマリちゃんがおそろしく分り易く仕上げてくれたりもした。実際に開催する為のノウハウも何も無かったけど、直前の準備には当時はボランティアでやってくれたテラちゃんイナガキ、そして愛されブキッチョささくれさんが必死に手作業をこなし、なんとか間に合わせてくれた。ゆうすけはこの形態の司会をなんとかなんとかこなしてくれた。チバちゃんは慣れない映像関連の操作を四苦八苦しながらやってくれた。本人はもう一度やって上手くやりたいと当時、相当悔しがっていた。ほりたんだって行った事もない場所でいきなり音楽担当を任されても淡々とこなしてくれた。言い始めたらキリが無いくらいにぐちゃぐちゃだった。

デコボコだらけツギハギだらけの第一回は150名を大きく超えるたくさんの方々に集まって頂き、また現地の登壇者の方の生声を直接聴いて頂き、そして何か考えるきっかけになり、そして実際にとある企業さんが動き始めてくれたりもした。そうしてボクらの真剣にやった「不出来な祭」がなんとか走り始めたのだ。たくさんの評価を頂いた一方でたくさんのご批判も頂いた。それはボクらがさらに考えるきっかけになったし、何より次に繋がるこやしに、いや、日本のこやしになるならその全てにちゃんと意味があるのだと思う。

ボクの信条には「許すこと」と云うのがある。

人間誰しも過ちを犯すから…と云うのもあるが、本当の意味とするところはもっと厳しい。許す事で次からは相手は自ら厳しい選択を課す事になる事になるからだ。2度目3度目でも許す。その代わりその相手が自分に課すハードルはその度に上がっていかざるを得ない。許す事は突き放す事よりボクは厳しいと思っている。上がったハードルを越えるのはなかなか難しいからだ。「オマエ、バカか?もう来んな!さっさと消えろ」そう言われた方が人間どんなに楽な事か。誰でも逃げる事は少しの勇気と諦めがあればできる。だけどボクは「ボクの許す」が自らも含め成立するのがリボーーーンのメンバーだと思っている。そう云うメンバーと出会え、共に仕事をした事をボクはとても誇りに思う。

 

AB型は2重人格だ。なーんて良く言われる。AB型が2重人格かどうかはさておき、人間誰しも歌舞伎町だろうとボクは思っている。そこにはあらゆる欲望とそして建前が色めき、様々なタイプの人間が渦巻いている。所謂カオスと云うやつだ。誰しも美しいココロと醜いココロが渦巻いており、その選択を強いられて生きている。2重で済むなら簡単な話だ。日本に起きた悲劇はそのカオスを津波が露にさせてしまったのだとボクは思っている。剥き身の人間が剥き身の街で生活を余儀なくされてしまった。政府も東電も剥き身。みんな剥き身。剥き身ってのは生きづらい。生きづらいから蓑が必要になる。ただ、一度見えてしまった剥き身を皆は良く知っている。愛なんて簡単な言葉で片付けるのもアレだけど、愛はあるのだと思った人もいれば、欲望がどれほどに汚いのかも見えてしまった事だろう。憎悪が吐き気が収まらない程きっついって思った人もいただろう。それは見えてしまうから非日常なのであって、見えてしまわなければ日常と云う事になる。見えてしまわなくとも存在はする。存在する事に怯える事の方が時間を無駄にしてしまう気がするのはボクだけだろうか。無い事を想定するのではなく、在る事を想定して行動にうつす事が思いやりなのだから。

7月、リボーーーンの第2回に向けボクらは始動した。ボクらはコバさんと云う「角」を仲間に向かい入れる。メディア向けの戦略をコバさんが角の如く動きトドメを刺しに行ってくれた。コバさんとささくれの「ダブルヨウヘイ」コンビは急速に仲を深めボクはそれを見てるのが大好きになった。まあささくれの無駄が大部分ではあったけど。第2回のリボーーーンについては11月の開催で、大平志保さんと云う素敵な女性が司会を恐るべきスキルでこなしイベントを締めてくれたと聞いた。ボクは残念ながら懇親会からの参加になってしまい、ふーみん石川さんと連携して提供して頂いた美味しいフードをガツガツ貪る事しかできなかった。参加人数は減ったがイベント事態は更に有意義なものになったと後から聞かされた。ボクらはもっともっと何かできるはずであるとそう思う。そう言った意見はたくさん外部からも聞いているし、特に石川さん、SAVE TAKATA佐々木さんからは貴重なご意見を頂いており、また期待も頂いており身が引き締まる思いだ。

なんだかリボーーーンの話ばかりになってしまいアレだな…苦笑

ボクはと言えば、本業の方で1月から続いたiPodのプロジェクトがようやく11月に収束した。また12月にはiPadの特急プロジェクトをお客様から依頼され、このプロジェクトの成功と共に会社を退社する事にした。たくさんの学びと愛すべき仲間のそばから離れるのは少しセンチメンタリズム的なアレを揺さぶられたけど、そこにはテラちゃんもかねきんもいるし、実はあまり心配していない。彼らが両輪となってド派手にブチ上げてくれるだろうとボクは思っている。

 

なんだかダラダラと書いてしまったけども…終わろっか。

継続する事って何だろうと思う。継続的な支援だとか継続的な活動だとか忘れない事ってなんだろうと思う。実はいまいち分かってない部分もあるけど、ひとつだけ分かってることがある。それはきっと共に生きる事なんだろうな、と。共に生きるにはお金だって必要だし、共に生きる目的が必要だし、もしかしたら生きる事とは忘れる事かもしれない。忘れないで欲しいと云う事の中には忘れてしまっても良い事だってきっとあると思う。忘れない事にすがるより、忘れられない事を作る方が大事だし、その為の準備を2011年はずっとしてきたのだと思う。何故ならボクはいつだって「ただただ前に」しか考えていないのだから。

 

2011年に共に過ごした皆様へ感謝の気持ちを込めて。 

のっち

 

ココロが生きていると言う事

Facebookでこんなリンク付きのPOSTが流れてきた。

あなたならどうする? ~スーパーの障害者差別~

http://www.youtube.com/watch?v=hwpNQ1NWzOU

 

昨夜、仲間と飲んだ帰りに歩いている時にボクはとても恥ずかしい事をしてしまった。皆で歩いていると50mくらい前方に妙な歩き方をする女性がに見えた。ボクは誰も気付いていないタイミングでそれを笑いに変えた。数分経ち、歩くスピードに勝るボクらは件の彼女に差し迫ってきた。良く見ると、歩き方が妙なのはそうだが、それはおそらく足に障害を持っているであろうと言う感じだった。

 

隣を歩く友人に「…あっ障害の人だったね。あの人。」的な事をバツが悪い感じで言うと、友人も黙って頷いたように見えた。そこから彼女が視界に入ってる間、ボクはとても恥ずかしかった。酔っ払ってるとはいえ、なんて事を笑いに変えてしまったのだと。逆に彼女が視界から消え、電車に乗った頃には既にそんな出来事は忘れていた。日が明けて冒頭のリンクがフィードに流れてくるまでは。

 

今のご時世、学校には道徳の時間ってのが無いそうで。ガッコに行ってる時に道徳の時間でココロが養われたのかどうか甚だ怪しいが、ただ一つ言えるのはボクはきっと幼い頃に何かを感じ、人に対する差別的なココロを持つ事はそれは恥だと感じていたはずだ。例えば腕が一本ねぇのと肌の色が黒い事が同じように差別の対象として扱われる事に関して、今のボクが考えれば差別する側のココロの動き方なんて凄く明快でわかりやすいし、幼い当時はそれがわからないから、単純に違和感を受け入れる事こそが平等であると認識をした。理由はおそらく、言われた側の人間はとても悲しい気分になるであろう事を想像した、もしくは想像させられたから。今でもそれは間違っていないとは思う。人のココロを思えばこそ、言えない事もあるし、敢えて突っ込む事だってある。

 

差別をする側のそれはとても単純なのだ。単に自分とは違う!と感じる違和感を、見た対象の人間に対してブツける事で自らが安心するようなココロの走り方をするに過ぎない。つまり違和感を受け入れたくないと言う表明をする事で自らを保っているのである。自らを保つ為の表明をしているに過ぎない。それって相手が健常者であれ障害者であれ、常日頃から行われているような気がしなくもない。相手の住処、相手の能力、相手の格好、相手の声色に対して、それは自分は受入れないと宣言する事で自らを保っている事なんて、世の中で多々見かけるではないかと思う。

 

多々見かけるから良いじゃんと言うワケではなく、多々見かけるからこそそう言う人間にはなりたくなし、何かを言う事、突っ込む事は相手に対する前向きな批判こそしたとしても相手を貶めて終わってしまうのだったら、世の中こんなに悲しくつまんねぇ事はないと思う。世の中がそうだから悲しいのではなく、自らがそんな世の中を認めるのが悲しいのであって、そんなモンは認めずに自らがブレずに生きる事こそが豊かなココロのまま生きるコツなんだろーなと思いつつ、昨晩のあの女性に届かない「ごめんなさい」の想いを胸に今日は終わろうと思う。

 

 

美しさと強さと賢さ

ここに武者小路実篤著「その妹」と云う一冊の本がある。

ザックリなあらすじは盲目の兄(広次)とその美しい妹(静子)の悲しい生き様を描いた話。広次はもともと画家を目指していたが、戦争の為に光を失う。静子は広次の身の周りの世話を健気に行い二人は暮らしていた。兄妹は叔父夫婦のところに身を寄せていたが、そんな叔父夫婦から静子に縁談がくるところから物語は始まる。

 

縁談は金持ちだが下品で下衆なドラ息子からのものだったが、兄・広次の為に金が生み出せるなら…と迷う静子に広次は一喝して縁談を断り、二人で叔父夫婦の家を飛び出してしまう。二人で始まった生活は広次の友人の西島と云う人物がたいそう助けてくれるのだが、やがてこの西島(既婚)と静子が危険な恋に落ちてしまう。この危険な恋が西島個人にも、兄と西島の関係にもありえないと判断した静子は、最初の縁談を受け、広次にお金を残して去ってしまう…広次「俺はちからが欲しい」のセリフを最後に幕は降りる。

 

そんな話はどうでも良いとして(ぬ?w)、昨日若いエンジニアと話をしていて悲しくなってしまいました。内容はさておき、彼の言わんとするところはつまり「ボクは目立たず、特にエッヂの利いた発言もせず、ただただ美味しい仕事をもらってチカラを蓄えられれば良いんです」的な事でした。「自分の主張をして目立って反感買って会社からの評価が落ちるのは美味しくないから」と言う事でした。彼のその先にどんなビジョンがあるのかは話してはくれませんでした。

 

その環境に応じた評価を得る為に本意でない事をするのは、最初の実績作りとそれに伴う信頼の為に必要かもしれません。事実、そう云うシーンだってボクの拙い経験の中で過去にはありました。し、必要に応じてそのような動き・仕事はきっとこれからもするでしょう。ただどうだろう…彼の話を聞いてると、今後も場当たり的に大局を見ない手法で生きていく感じがしてしまいました。感覚的に昭和の仕事の方法な気がするのですよね。エッヂ利かせてリスクを取る事で自らの信じる道に皆を誘導して信頼できる仲間を増やす事こそが、本当に進むべき自らの道を切り開くのではないかな…特に今の小さな会社の中では…と素朴に思ってしまいました。つまり誰も人がついて来ない感じに見えた。つまり大局を見据えたビジョンが無いように見えました。

 

やがてデッケー会社になった時にどんなチカラを持って、何をしたいのか…みたいなビジョンが彼から見えなかったのが悲しいのですね。人はエゴイズムを多いに持っていて結構だとボクは思うのです。思うのですが、エゴイズムによって自らを滅ぼすのであれば、それを上手く使う術を人は学ばなければならない。もしくはエゴイズムと付き合う術を学ばなければならない。とボクは思うのです。

 

元来、サッカーでフォワードをやっていたのが関係しているのかわかりませんが、ボクは強烈なエゴイズムのカタマリみたいな性格をしています。「俺がゴールにブチ込んでチームが勝てば、それ以外に何が必要なの?あ?」が基本です。つまり「俺以外のやつがさっさと走って守って、さっさとボールを運んできやがれ」なヤツですが、それが満たされない以上に嫌なのがチームが負ける事です。チームが負ける・勝負に負けるくらいなら「仕方なく」いや「喜んで」ボクも走ります。ゴールを決められないストレスよりチームが負けるストレスの方が遥かに上と言う事ですね。

 

身を切って嫁いだその美しい妹は言いました。「あせらないでちょうだいね。私は(兄さんを)を生きて見られるのだと思うと嬉しくってよ。」と。必要な思いの通りに生きて、本当に必要なものを得る為の芯の強さ。そして賢さ。日本人だからなのかわかりませんが、静子の美しさと強さと賢さにボクはとても憧れます。

  

追伸 :ブログのタイトルは不定期に気ままに変わります