お客様の中でどなたかお医者様ごっこのお医者様はいらっしゃいませんか?

ユルめのやつ(タイトルは不定期に変わります)

全くお酒に酔っ払ったりしていない中で考えた、お祭りで売ってる焼きそばの中に潜む利益と同じくらいの純粋悪についてのそこはかとない感じのアレ

下品で敢えて空気なんか読まない時もあるボクですが、礼にはうるさく敏感です。そんなワケで人を影で貶めたり節操無く人のパクりネタで煽ったりする人間を見るとイライラするのですが、それも19-20の兄ちゃんなら痛い目を見れば良いと思うだけで特に問い詰めたりはしないです。

ところがいいオッサンがそうだった場合には、はて…コレはどうしたものかな…と思案が始まりますが、オッサンになってもそのような行動が取れる程度の礼節しかないのであれば、問い詰める事自体が無駄であり、そのようなコストを自分が負う意味すら無価値に思える上、そのような人間はボクが何かアクションを起こさずとも自らの間口と世間からの信頼を狭めてるだけでしかないと言う判断になるので、ボクは何も言わないと言う選択に大概の場合は至ってしまいます。

 

今回の事例では、節操ない行動のオモテッツラの皮が「応援」と言う子供の純真のような一見は邪気の無い、しかし押し付けがましいような行為に見えたのでイライラしてしまいました。当該ネタはFacebook上のPOSTがニュースフィードに流れてきたのですが、このノリに対してボクと似たような感覚を覚える人はいないのか…と思いつつネタ元を探しに行き、問い詰めたろかい!と少し躍起になっておりましたが、その途中でこのコストをかける意味って一体なんなのだろう…そのように自分の中で考え始めたら冒頭のような考えに至り、その無価値さ加減に探し突き止める事をボクは止めました。

 

やがて思考は何故に当初自分がイライラしたのだろうか…と、むしろそこにフォーカスが当たって巡り始めます。例えばパクリ煽りの対象となったサイト主が全くの他人だったらボクはどう考えただろうか。もしくは知り合いだったとして、ボクよりも目上の人間だったらどう考えただろうか。もしくは同じぐらいの経験値をもっている同性だった場合にはどう考えただろうか。

結論的には(ボクから見て)被害を受けたであろう側の人間がどういう立場で性別が何でどういう人間であるかは関係ない。やはり先の行動に見える「あざとさ」にボクは嫌悪を覚えているのだと解釈するに至るのです。では何故にそのあざとさに嫌悪を覚えるのか…と言うところにスポットが当たって思考は遷移を始めます。

 

「応援」と言う一見は邪の無い皮をかぶり且つ一種のジョークのようなノリで行動しているにも関わらず、その内側にある自らの益を得る…もしくは高めようとしている邪があるような気がしてならないからと言うのが、その解なのかもしれません。

しかし我ながら、これらは他人が最初にリボーーーン(ボク自身は2012.08.05脱退)を見た時に感じた感覚に近いのかもしれないとも思ったりします。復興支援の皮をかぶって利益を得ようとしてんじゃないの?金儲けしようとしようとしてんじゃないの?って感じの思考と似ている気がするのです。

 

人の内側なんてものには人はたどり着けません。できる事は人の見えざる内側を思いつつ、ただただ行動する事しかできません。そこに自分が得られる価値だとか益だとかを挟んでしまったら、ある意味で純粋(もう純粋と言う言葉自身に邪が入ってる気がしてならない感じにボクはなっていますが)な評価に則った行動なんて取れなくなると考えます。そう言った意味では、ボクはより純粋悪の中でずっと生きている気がしてならないですが、自己を内側で正当化する手段にかけては、もしかしたらボクは天下一なのかもしれません。