お客様の中でどなたかお医者様ごっこのお医者様はいらっしゃいませんか?

ユルめのやつ(タイトルは不定期に変わります)

言葉

言葉。それは様々な方法で人から放出される整形された意志。言葉には基本的には意志が宿っていると思っている。そしてボクはその意志に宿る品を嗅ぎ取っている。これは誰もが意識的に、もしかしたら無意識的にやっている事だろう。人は生命活動を長く経る事で様々な人に出会いそして経験する。人に出会うという事はつまりたくさんの言葉に出会うということであり、つまりはたくさんの品に触れるという事である。ボクはそう解釈している。

 

言葉には様々な色がある。その色はシーンによって見え方が変わる。たとえば同じ感情で同じ考えかたで言葉を出していても、会って出す言葉と、電話で出す言葉では相手の受け取る色が変わる。これがメールであるのか、もしくはショートメッセージであるのかでも変わるし、ビジネスなのかプライベートなのかでも変わる。さらに前提情報として相手との面識の有無にも依存するし、面識があっても付き合いの長短によって受け取る色はやはり随分と変わってしまう。これに相手の精神状況まで加味したら、その組み合わせはほぼ無限に近くなると考えても良いくらいだ。もっともビジネスでのやり取りに限定したら、いろいろなものを排除して言葉を選定できる面もあるので、ある意味でビジネスでの言葉のIN/OUTがもっとも簡単なのかもしれない。ただ、そこに配慮があるかないかでビジネスの展開も大きく変わる事もぜんぜん否めないけれども。

 

たとえばボクはビジネスメールのある一節から受け取った色を凄く気に入ってしまい、いつかそれを使おうと何年か前に思った事があった。それはもう少し解釈を進めると、その相手の人間としての振る舞いに憧れていたのかもしれないし、もしくはこうありたい自分の理想の一部と近かったのかもしれない。当然、そんなボクの内側は人に知られるワケもないので、ボクは数年後にあたかも自分の言葉のようにそれを使い始めた。しかしどうもこれが最近しっくりこない。それはおそらく、ボクの理想とする像と今現在の自分の中に備わる品格が一致していないからだとようやく最近理解した。

 

内側にある品格とレベル感がずれないように言葉の出力をしないと、それは相手に違和感だけを与えてしまう事に他ならない。敢えて言うならば、自らの肉になっていない言葉は使わないのが無難だとボクは考える。それでも対外的に最低限必要になる言葉と言うものがあるので、それらの言葉を使うのならば、つまりそれは最低限その品格を身につける必要があると言う事に帰結する。恐ろしい事に人間が感じる違和感とは、それらを明確に言語化をして論理的に解釈する作業を行わない事の方が圧倒的に多い。それらは単にイメージとしてだけ残って相手の脳の中で処理されてしまうし、このイメージは相手に色濃く残るものだ。させたいイメージがあるとして、狙っているのならまだしも、自らの粗雑な言葉で意図しないイメージを与えるのなら、それは単純に損失を被っているとしか言えない。

 

近年、拡散的にそしてリアルタイム的に言葉を伝える手段がインターネットの出現により増えてしまった。昔に比べたら爆発的に人の言葉の色を見る機会が増えたと言い換える事ができる。もう少し言うと、爆発的に自分の言葉の色が見られる機会が増えたと言える。これはある意味で自らの生長スピードを速める事だと捉えられる。なぜならば失敗する機会も爆発的に増えたとも言えるから。このやり方が好きか嫌いかと言えば、どちらかと言えば嫌いなのだけども、トライ&エラーが一番生長するスピードが速い。言葉の色を出してみて、それがどうだったのか分析する機会があると言う事、人の言葉の色を分析する事、それは自らの生長を促す事になるとボクは考える。ボクの場合は言いっぱなしで、ただただ言いたいだけの時が8割方なのだけども、自ら何をフィードバックとして捉えるかを意識的に持つ事によってボクは、と言うか我々は、存分に生長する機会を目の前に与えられている。

あとおっぱい。