お客様の中でどなたかお医者様ごっこのお医者様はいらっしゃいませんか?

ユルめのやつ(タイトルは不定期に変わります)

ココロが生きていると言う事

Facebookでこんなリンク付きのPOSTが流れてきた。

あなたならどうする? ~スーパーの障害者差別~

http://www.youtube.com/watch?v=hwpNQ1NWzOU

 

昨夜、仲間と飲んだ帰りに歩いている時にボクはとても恥ずかしい事をしてしまった。皆で歩いていると50mくらい前方に妙な歩き方をする女性がに見えた。ボクは誰も気付いていないタイミングでそれを笑いに変えた。数分経ち、歩くスピードに勝るボクらは件の彼女に差し迫ってきた。良く見ると、歩き方が妙なのはそうだが、それはおそらく足に障害を持っているであろうと言う感じだった。

 

隣を歩く友人に「…あっ障害の人だったね。あの人。」的な事をバツが悪い感じで言うと、友人も黙って頷いたように見えた。そこから彼女が視界に入ってる間、ボクはとても恥ずかしかった。酔っ払ってるとはいえ、なんて事を笑いに変えてしまったのだと。逆に彼女が視界から消え、電車に乗った頃には既にそんな出来事は忘れていた。日が明けて冒頭のリンクがフィードに流れてくるまでは。

 

今のご時世、学校には道徳の時間ってのが無いそうで。ガッコに行ってる時に道徳の時間でココロが養われたのかどうか甚だ怪しいが、ただ一つ言えるのはボクはきっと幼い頃に何かを感じ、人に対する差別的なココロを持つ事はそれは恥だと感じていたはずだ。例えば腕が一本ねぇのと肌の色が黒い事が同じように差別の対象として扱われる事に関して、今のボクが考えれば差別する側のココロの動き方なんて凄く明快でわかりやすいし、幼い当時はそれがわからないから、単純に違和感を受け入れる事こそが平等であると認識をした。理由はおそらく、言われた側の人間はとても悲しい気分になるであろう事を想像した、もしくは想像させられたから。今でもそれは間違っていないとは思う。人のココロを思えばこそ、言えない事もあるし、敢えて突っ込む事だってある。

 

差別をする側のそれはとても単純なのだ。単に自分とは違う!と感じる違和感を、見た対象の人間に対してブツける事で自らが安心するようなココロの走り方をするに過ぎない。つまり違和感を受け入れたくないと言う表明をする事で自らを保っているのである。自らを保つ為の表明をしているに過ぎない。それって相手が健常者であれ障害者であれ、常日頃から行われているような気がしなくもない。相手の住処、相手の能力、相手の格好、相手の声色に対して、それは自分は受入れないと宣言する事で自らを保っている事なんて、世の中で多々見かけるではないかと思う。

 

多々見かけるから良いじゃんと言うワケではなく、多々見かけるからこそそう言う人間にはなりたくなし、何かを言う事、突っ込む事は相手に対する前向きな批判こそしたとしても相手を貶めて終わってしまうのだったら、世の中こんなに悲しくつまんねぇ事はないと思う。世の中がそうだから悲しいのではなく、自らがそんな世の中を認めるのが悲しいのであって、そんなモンは認めずに自らがブレずに生きる事こそが豊かなココロのまま生きるコツなんだろーなと思いつつ、昨晩のあの女性に届かない「ごめんなさい」の想いを胸に今日は終わろうと思う。